学校に行かなくてもいいし、真面目に生きる必要もない
―「不登校」と「大人社会のこうあるべき」から考える自由・尊厳・人権
序章:9月1日のニュースに覚える違和感
毎年8月末から9月初めにかけて、「夏休み明けに子どもの自殺が増える」というニュースが流れます。 これは残念ながら単なる印象論ではなく、警察庁や厚労省の統計に裏付けられた事実です。
2024年の小中高生の自殺者数は529人。過去最多。
特に「夏休み明け」「冬休み明け」「学年の変わり目」で急増。
文科省も「9月1日は子どもの自殺が特に多い」と通知。
毎年同じことが繰り返され、学校現場や教育委員会には注意喚起の文書が配布されます。 けれども、数字は一向に減らない。
なぜでしょうか。
私は、子どもたちを追い詰めている大きな要因のひとつが、「不登校」という言葉の存在だと考えています。
第一章:「不登校」という言葉がもたらす呪縛
1.1 「不」という否定のレッテル
「不登校」という言葉は、学校に行かない子どもを指す行政用語です。 しかしそこには「学校に行くのが普通」「行かないのは異常」という価値観が潜んでいます。
「不」という否定の接頭辞が付くだけで、子どもは「自分は普通じゃない」と思い込み、親は「育て方が悪いのでは」と罪悪感を抱き、学校は「解決すべき問題」として子どもに対応しようとします。
この「言葉の構造」が、子どもと家庭を深く傷つけているのです。
1.2 「怠け」という誤解
かつては「登校拒否」と呼ばれ、怠けや反抗と誤解されてきました。 現在は文科省も「不登校は問題行動ではない」と明記し、支援方針を転換しました。
それでもなお社会全体では、「学校に行かない=怠け」というイメージが根強く残り、子どもを追い詰めています。
1.3 「復帰」を唯一のゴールにしない
法律的にも、教育機会確保法(2016年)は「学校復帰だけを目標としない」と明記しました。 それでも、学校現場では「登校できるようにすること」が指導目標になりがちです。
つまり、言葉と制度と文化が絡み合って「学校に行かないことは異常」という物語を強化しているのです。
第二章:法律と人権から見た「登校義務」の実像
2.1 憲法
憲法26条は、
国民は教育を受ける権利を有する
保護者はその子に普通教育を受けさせる義務を負う
と規定しています。 つまり 義務は保護者に課されている のであって、子ども本人が「学校に行かなければならない義務」を負っているわけではありません。
2.2 学校教育法
学校教育法も、学齢児童に普通教育を受けさせる義務を保護者に課しています。 ただし「毎日学校に通わせなければならない」とは書かれていません。
2.3 児童の権利条約
国連の「児童の権利条約」には、子どもが「意見を表明する権利」を持ち、その最善の利益が尊重されるべきだと明記されています。 つまり、子どもが「学校に行きたくない」と意思表示した場合、それを尊重することは国際法上の義務でもあるのです。
2.4 教育機会確保法
2016年に成立した「教育機会確保法」では、不登校は問題行動ではないと明文化され、国と自治体は多様な学びの機会を保障する責務を負うことになりました。
これらを総合すると、「子どもが学校に行かない=法律違反」ではなく、「子どもが学校に行かなくても、社会が学びの機会を保障する」ことが筋道であることがわかります。
第三章:自由・尊厳・人権からの再構築
ここで重要なのが、自由・尊厳・人権という視点です。
自由:人は自分の生き方や学び方を選ぶ自由を持つ。
尊厳:どの選択をしても、人として劣っていると扱われないこと。
人権:法律を守っている限り、他人に矯正されずに生きられること。
しかし現実には、子どもに対しては「学校に行くのが普通」と言われ、大人に対しては「社会人ならこうあるべき」と言われ続けます。
「自由と尊厳、人権。法律を遵守して生きているのに、大人になっても人としてこうあるべきだと他人に対して言う人が多い。それは『不登校』問題と同じ構造だ。」
子どもは「学校に行かない自分は普通じゃない」と責められ、大人は「枠に合わない自分はダメだ」と責められる。 根っこにあるのは、多数派が基準にした「普通」の押し付けです。
第四章:真面目に生きる必要はあるのか?
ここで、さらに一歩踏み込みます。
「人に迷惑をかけなければ真面目ぶる必要もなければ、真面目にする必要もない。日本で人は自由に楽しく暮らす権利を保障されているから。」
これはとても大切な価値観です。
4.1 「真面目」という呪縛
日本社会では「真面目」が美徳とされ、「真面目に働く」「真面目に登校する」ことが求められます。 しかしそれはしばしば「他人にどう見られるか」という外部基準によって強制されるものです。
4.2 「迷惑をかけなければ」十分
憲法も法律も、「真面目に見えること」を国民に義務づけてはいません。 義務づけているのは、他人に危害を与えないこと、法律を守ることです。 それ以上は各人の自由です。
つまり、人に迷惑をかけなければ、真面目ぶる必要もなければ、真面目にする必要もないのです。
4.3 子どもへの適用
子どもにとっても同じです。 学校に行かないことが誰かに迷惑をかけているわけではないのなら、それは「問題」ではなく「選択」です。 むしろ、無理に登校して心身を壊し、家族や社会に大きな負担をかける方が「迷惑」になってしまいます。
第五章:言い換えだけでは足りない
確かに「不登校」を「学びの多様化」と言い換える動きは進んでいます。 しかし、言葉だけを変えても本質は変わりません。
成績評価や進学制度は依然として登校を前提に組まれている
学校や保護者は「まず登校させるべき」という意識に縛られている
メディアは「不登校問題」と報じ続ける
必要なのは「言い換え」ではなく、文化と制度の根本的な転換です。
第六章:制度を変えるための提案
学校外学習の完全承認 フリースクール・オンライン教育・在宅学習を正規の教育として法的に認める。
出席・評価制度の改革 学校外での学びを出席扱いにし、成績に反映する仕組みを全国で統一。
意見表明の制度化 子どもが自分の気持ちや意見を言える仕組みを制度的に保障する。
休み明けの安全週間 9月・1月・4月の新学期直後はテストや大行事を避け、心の安全確認を最優先する。
人権教育の拡充 「多様な生き方を認める」価値観を教育課程に盛り込み、社会全体の意識を変えていく。
第七章:大人社会と学校社会の「同じ構造」
子どもへの「学校に行け」という圧力と、大人への「こう生きるべきだ」という圧力は、まったく同じ構造です。
子どもに対しては「学校に行くのが普通」
大人に対しては「社会人ならこうあるべき」
どちらも「普通」という幻想に合わせろというメッセージです。 しかし実際には、人はそれぞれ異なる状況と価値観を持っています。
「真面目に見えるかどうか」で人を測る社会から、「迷惑をかけなければ自由に楽しく生きていい」という社会へ。 その転換こそが、子どもも大人も生きやすい社会をつくる鍵です。
終章:文化と制度を変え、自由と尊厳を守るために
休み明けに子どもの自殺が増えるのは、「学校に行かねばならない」という呪縛が命を奪っている証拠です。 必要なのは、言葉の言い換えではなく、「行かない自由」「真面目にしない自由」を認める文化と制度です。
学校に行かないことを「問題」ではなく「選択」とみなす
大人にも子どもにも「こうあるべき」という呪縛を押し付けない
「人に迷惑をかけなければ真面目にする必要はない」という価値観を共有する
日本は憲法で基本的人権を保障し、すべての人に自由と尊厳を保障しています。 だからこそ、「真面目に見えなくてもいい。楽しく生きていい。」
この当たり前の権利を、子どもにも大人にも等しく届けることが、私たちの社会の使命です。
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